北村市次郎先生を偲んで

2007年1月26日に、北村市次郎先生が急逝されました。謹んで御冥福をお祈りします。北村先生は生前、中部大学での理学教育に大きな貢献をされ、多くの学生達にしたわれてきました。北村先生の思い出や暖かい人柄を忘れないために、ここに北村先生を偲ぶページを作りたいと思います。このページに掲載する北村先生への追悼文、思い出など

あてにお送りください。


お言葉をお寄せくださった方々(敬称略、順不同)


鈴木 國弘  奥村 吉孝  吉福 康郎
村岡 克紀  小林 礼人  大木戸 貞夫
手嶋 忠之  森下 範一  渕野 昌
工藤 健

※は本人のページへ移動



 あの日のことが重すぎ大きすぎて、北村さんについてなにを書いたらいいかわかりません。それでも、北村さんの現れるささやかなできごとを思いうかべ、それを少し書かせていただきます。
 30才台前後のあの頃。
 夏休みにいった教室の研修旅行中、東京は上野の駅で、みんなより遅れてあなたと私が歩いていた。ぞうりだかサンダルだかを履き、らくな格好の北村さんとぱっとしない格好の私が歩いていると「兄ちゃんたち、仕事・・・・・、いい仕事あるよ。」と呼び止められた。お若かかったですね。
 北村さんが、非常勤講師で名工大へ午後からの授業に行っていた頃、私の居室は5号館の4階だか5階だかにありました。そして、窓の下がスクールバスの乗り場になっていました。その授業のある日に、時に、お昼ころ部屋にこられることがありました。授業に行くために利用するスクールバスがエンジンをかけ出発の準備を始めても、出発時間間近になって窓からバスを見ていた私が動き出したよといっても、慌てる様子もなく食事をとっていました。でも、いつのまにか下に行ってバスに乗り、あなたの乗るのを待っていたかのようにその直後にバスが出ました。若いときから、いろいろな場面であまり慌てることもなく行動されていました。こちらが慌てていると、何いそいでんねんなどと言われてたことも何度かありましたですね。
 あなたは体力やいろいろな能力が高く、いつも頭の中で見通しを立ててあったので、悠々として行動ができ、最後には、短時間で集中してことを成し遂げられたのでしょう。

 十何年も以前だったでしょうか、どなたかが病気になられた時か、そのためのお見舞いに行くときだかに、「私のときも(遠くても大阪まで)お見舞いにきてや」と私たちにこんなことを言っていたことも思い出されます。

 部屋の前に「来たるものは拒まず。去るものは追わず。」の文句を張り出しておられました。学生さんとわれわれに、いつも穏やかにやさしく接してこられたあなたらしい言葉だなと感じていました。それを見ながら部屋の前を行き来していた日々も、はや1、2年も前のことになってしまいました。

 日々大学で、ご一緒の出張、旅行時に、いつもご厚誼をいただきありがとうございました。北村さんいろいろなことでお世話になりました。ありがとうございました。

森下 範一


北村先生を偲ぶ
手嶋 忠之
私が北村先生に初めて出会ったのは,もう40年以上も前になる,私が大学院の博士課程に入った時である。私の1年先輩であった。その後,北村先生は1970年にここ中部大学に勤められたが,私も2年後の1972年に中部大学に勤めることになり,主に数学教育に携わって多くの学生が育っていくのをみてきた。勤め始めた頃は,数学の内容から教育の仕方まで,いろいろと相談にのってもらった。さらに,私の結婚式では司会をしてもらうなど,先生は公私にわたって私の師の様な存在であった。それ故,あのように急に逝かれてしまい,一瞬座標軸を見失った様な感じがしたのである。

 北村先生が,中部大学の数学教育,いや教育全般に遺された功績は大きなものがある。当初は工学部だけであったが,その工学部の共通基礎科目の中の数学関連科目に,「微分積分学」,「線形代数」,「微分方程式」など内容ごとに名前を付けた,工学部としては非常に充実したカリキュラムを作ることを推進されたこと,その後経営情報学部,国際関係学部が出来て中部大学になったとき,教養教育科目の中に全学の学生対象の「数理科学」を設けたこと,本学の学生に適した数学の教科書を作ることを中心になって推進されたこと等である。先生は,「すべての学生を落伍者のないように大事に育て」,「教えるのではなく自から育つのを待つ」といった教育観をお持ちのようであった。一人の落伍者も作らないようにと再試験を何回も行うといったきめ細かい指導をずっと以前から続けており,多くの学生が北村先生の部屋によく相談に行っていたようであるが,先生はそのときすぐに答えを出すのではなく,その悩みをよく聞いて答えを本人が得るまでじっと待っているといった態度で接しておられたようである。

 先生は,大学院時代の教授:片山泰久教授が湯川秀樹教授とともに行っていた研究「素領域理論」について勉強していたことから,「素粒子の時空構造」に関心をもっておられた様である。こちらに来てからも,数学上の連続という概念と実際の物理的空間の連続性というものが本当に同じものなのかどうかというようなことについて,常に疑問を持っておられたようで,たとえば数学の「超準解析」を勉強していた時期があったと聞いている。片山教授が早くして亡くなられ,この方面の研究は余り進まなかった様である。そのころ,核力などを含む強い相互作用の場の理論である「量子色力学(QCD)」が確立する時代であったが,そのQCDの多様性を調べるために,その後,先生と森下先生そして私との3人で,スカラー中間子の構造についていろいろ調べてきた。最近も,先生との最後の共同研究論文を,hep-ph/0702256 に発表したところである。

 北村先生は亡くなられたが,しかし,北村先生の遺された風は,理学教室の中,大学の中を何時までも吹いていくものと思っている。


2007年 2月28日
岡谷市での公開講座のこと

去年の2月に、本学のエクステンションセンターから、岡谷市においての公開講座の依頼があり、北村先生と私が引き受け、3月の始めに北村先生、センターの新美課長、泉田様と4人で岡谷市の工業振興課に出かけました。相談の結果、公開講座のテーマは「切削の数理」、時期は8月の終わりから9月にかけて3時間6回(前半 北村先生)。講義の目標は、技術の更なる向上また新しい技術の創造のために、身に付けた切削の技能の背景にある数理を深く学んでもらうというものでした。切削工学については2人とも勉強したこともありませんでしたが、私は北村さんをあてにして、その日は諏訪湖を見ながら食事をし、温泉にもはいって大いに楽しんで帰りました。それから、私たちは準備に追われることになりました。特に、8月の初めはたいへんで、北村さんから「出来てんかいな」と電話をもらったりしました。ご当人も直前まで原稿を作っておられました。また、切削の実際を知るため、北村さんが機械学科の水谷秀行先生にご無理をお願いし、2人でおしかけ長時間教えて頂いたこともありました。

北村さんは講義を終えて次の日(講義の終わる時間が遅くてその日は帰れない)、特急しなのには乗って帰らず、鈍行で途中下車して国分寺の所在を調べたりしながら帰られました。

公開授業の頃は岡谷市の樹木であるいちいの木に小さい赤い実がなり、諏訪湖も美しく、よい思い出になりました。
大木戸 貞夫


北村先生

部屋の前でお会いすると、いつも笑顔で片手を挙げて「やぁ」と声をかけてくれましたね。今思い起こすと、その手が横に動いていたような気がしてなりません。

先生は今頃天国で炬燵に当たりながら、お菓子をたくさん食べておいでのことでしょう。

Leitner の詩 Das Weinen (涙)から4行引用して、先生への弔意を表したいと思います。

Bald, wenn vom heissen Weinen
Dir rot das Auge glueht,
Wird neu der Tag erscheinen;
Weil schon der Morgen blueht.

(長く涙して目は赤らむが、やがて新しい一日が訪れる。もう夜が明けようとしているのだ。)

ご冥福をお祈りいたします。

小林 礼人


北村先生を偲んで     
理学教室 村岡克紀


北村先生と私は,居室が9号館と6号館,担当科目が数学と物理ということであまり接点がありませんでしたが,それでも次の3点が鮮明に思い出されます。

(1)私が中部大学に来てまだ間がないころ,東京に出張して東京ガーデンパレスに宿泊していましたら,にこにこ笑いながら手を振られる方がおられます。私が3年前の着任時に理学教室で歓迎の昼食会をしていただきましたので,北村先生は私を憶えていただいていたようですが,私はまだ一同に会していただいていた先生がたのお顔を覚 える前のことでした。あとで,その方が北村先生とわかりましたが,ガーデンパレス での先生のあの笑顔が印象に残っています。

(2)2005年度の理学教室研修旅行は私が幹事役になりました。その時の教室の研修旅行担当の庶務委員が北村先生でしたが,行先選定からいろいろなアレンジまでたいへん親切に相談に乗っていただきました。そして,同年9月に行ったスプリング8からエクシブ鳴門の楽しい旅行と,夕食時の先生のユーモアあふれるスピーチも忘れられま せん。

(3)最近まで,北村先生は教室会議の議事録をまわしていただいていましたが,その末尾にはいつもそのときの教室会議の気分を的確に表した「歌」をつけていただいていました。たとえば,「大阪とおんなじや景気が悪いさかいどないもならへん どの会議もそんなふんいきでした」といただくと,私などすぐに「あの雰囲気を表していて,全く同感です!」とメールを返したものです。

これら僅かの交流を通じて,私なども北村先生のお人柄とユーモアのセンスに暖かい気持にさせていただいてきました。
お亡くなりになる2日前に行われた教室会議に少し遅れてみえた先生を見て,「すこしお疲れかな」と思いました。それがあのようなことになられるとは全く予想もできず,知ったときは絶句しました。

先生のご冥福をお祈りいたします。


北村先生の想い出

 私が中部大学(当時中部工大)へ来たのは、75年の春だった。それまでいた大学院は、競争社会の縮図のようで、周りはみな競争相手だった。その緊張感を持ったまま、まだ物珍しいキャンパスを散歩していて、9号館の前へきたときのことだった。突然、窓の開く音がして、

     「吉福さん、部屋へ来ませんか」

と暖かく優しい声が聞こえてきた。
 それが北村先生だった。北村先生の部屋でしばらく話をした後、「ここの人は競争相手ではなく、仲間なのだ」と実感した。私の人生が「闘い、競争する人生」から「仲間と協力する人生」へと転換する第一歩を踏み出すきっかけを与えてくれたのが、北村先生だった。

 それ以来、33年、その想いは強くなるばかりである。

 北村先生のご冥福を心からお祈りします。

吉福 康郎


北村先生追悼

奥村 吉孝

あの1月26日の衝撃から、はや1月近くが過ぎた。北村さんの明かりのついていない部屋の前を通るたびに、北村さんがもうこの世にはいないことを思い知らされるとともに、
世の中の無常を痛感するこの頃である。幼い頃から法事の折に度々聞いていた
蓮如聖人の御文「朝に紅顔なれども夕べに白骨となれる身なり」の言葉通りの亡くなり方で、北村さんの無念を思うと胸が痛む。

思えば、北村さんに初めて出会ったのは、私がやっと中部大学へ就職できて、大木戸さんに連れられて、この9号館二階の北村さんの小さな部屋を訪れた時であった。その時の印象では「まだ30過ぎなのに、おじんくさい人だな」と思ったことを覚えている。でも、
不思議なことに、北村さんの印象は60を過ぎた今でも不変で、最近は「歳をとらん人だな」と思っていた。それが、「まさかまさか」の出来事が起きるとは、生きとし生けるものの定めとは言いながら残念なことである。

私が中部大へ来た頃は、北村さん、大木戸さんと同じように週末には帰省していた。
その頃北村さんの藤山台の住居で、夕食を摂りながら談笑したことが思い出される。北村さんの住居は、よく整頓されて書斎には壁際にずらりと本棚が並び学術書や趣味の本、そのときの話題の本が並べられてあり、いかにも学者の家という雰囲気であった。机の上には奥さんと子供さんの写真が立てかけてあった。あの頃は、日本はまだ高度成長のただ中にあり世の中に活気があって、中部大学も成長途上で学生数もどんどん増加し、キャンパスには元気のよい学生が歓声をあげていたように思う。我々も、学問研究のこと、中部大学の教育や学内事情のこと、家族のこと、子供の将来のことなど夜も更けるのを忘れて話し合った。ある時などは、北村さん宅で寝込んでしまって、朝になり一緒に学校まで歩いてきた事もあった。多分、アルコールが入っていたせいか、中部大学の裏山を登るのがえらくしんどかったことを憶えている。

あの頃は体力もあり、まだまだ将来に対する可能性もあり、今から思うと夢のような時代であった。あれから30有余年の歳月が経ち、我々も60歳余の齢を数えるようになった。この間、成し得たことより成し得なかったことの多さを思うと内心忸怩たるものもある。北村さんにしても同じであろうが、北村さんには私などがはるかに及ばないことがある。それは素晴らしい家族を持ち得たことである。葬儀の折のご長男の挨拶は、父親を思う心にあふれた聞いたことも無いような胸を打つものであった。そのことによって、北村さんが奥さんと共にいかに慈愛にあふれた心で子供を育て家族を形成してきたかがわかる。もう、お孫さんが7人もいるという。北村さんは人生において一番大事な事を成し得たといえよう。これだけで、この世に生を受けて64年を精一杯生きてきた価値があるといえる。

大学の北村さんの部屋の前には、学生をいかに手厚く指導し一人の落伍者もださないでおこうという意気込みを感じさせる掲示であふれている。学生に対する対応も誠実そのもので、学生がよく相談に訪れていたところを見聞している。

北村さんは逝ってしまったが、ご家族の心の中、これまでに触れ合った人々の心の中で、心温まる思い出として生き続けていくであろう。今は、北村さんの冥福を祈り、ご家族のこれからのご幸福を願うばかりである。
合掌


北村さんへ

最初は,お互いに学生運動の経験だけで,組合活動の波に飲まれて,よく頑張りましたね。自作の組合旗を10本程,5月の風にはためかせ,自由の空気を吸い込みました。「僕たちの魂には,一筋の白髪もなかった」。あれは時代の潮流,戦後民主主義運動の回折波だったのだろうか。

 次に,僕が一冊の本,メドウズの「成長の限界」に飲み込まれて,どんな正義も地球環境論に支えられなければ意味が無いと言い出して,研究テーマまで環境問題に変えたのに対して,君はびっくりしていたようでしたが,それを好意的に眺めて呉れていました。

 僕の正義(持続可能な開発)はいくらか具体的なヴィジョンとなり,最近はバイオマス(生物資源)文明に期待を掛けるようになりました。しかし,文明の転換には,いくら頑張っても100年程度かかるだろうな。乞う,ご期待。


鈴木より


渕野 昌 のホームページにおける お別れの言葉はこちら

工藤 健 のホームページにおける お別れの言葉はこちら


北村先生企画の「現場にいく、見る、触る、そこで聞く・野外教室」のページはこちら








中部大学理学教室ホームページへ